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null 美佐の話は、よき昔を夢みるようで、近衛や原田の好ましいエピソードが止めどもなく続く……。  ところで、西田を囲む「哲学研究会」だが、木戸によれば、「西田さんの哲学は本当をいうと、わからないんだ、我々にね、あんまり難しくて。まあ、人格には敬慕していたからね、それで、よく宇治へ行ったり、方々一緒に行ったり……」ということで、「あんまり長く続かなかった」ようだ。たしかに、「純粋経験」で始まる西田哲学は、「学生たちも難解で試験に困った」〈上田久『祖父西田幾多郎』(53年、南窓社)166〉というから、学習院の「哲学課」の成績がずっと「乙」だった原田がどの程度理解できたか疑問だが、原田は『善の研究』という哲学書一冊を理解するかどうかよりも、もっと大きなことを学んだようだった。長與善郎はいう。 [#この行1字下げ] 原田は、学問的知能はほとんどゼロだったに拘わらず、これが正しいとか、永久不変の道だとかいうことに関する勘はよく、むしろ近衛などよりもしっかりしていた。そしてその故に畏敬する人——例えば西園寺さんとか、西田先生とかいう人——の世界的視野に立っての高見に対して徹底的に忠実であり、水火の難も辞せぬ健げさがあった。そのため終戦近くには家宅捜索をされたりしたそうであるが、その誠忠の結晶である「原田日記」によって思いがけない記録を遺したことは、ちょっと小利口ではあっても小細工の嘘の尻尾をすぐ見透かされて世の信用を失い、結局失意に終る者の好対照で、愉快に思われる。〈長與『わが心の遍歴』280〉  長與らしい辛辣な文章だが、原田の生き方に大いに敬意を払っているようだ。  少し脇道にそれるが、同じ作家で近衛に近かった山本有三も原田についてこんなことをいう。 「彼は、たんに政治の裏おもてに通じていたとか、勘がいいなんてことだけではありません。本来、正義感の強かった人ですよ。それがなかったら、おそらく『西園寺公と政局』は生まれなかったでしょう」〈山本有三『濁流』(49年、毎日新聞社)49〉  長與や山本のいう『西園寺公と政局』については、小泉信三も、長く慶応大学の塾長をつとめたこともあって、「私の職業は、原田君のよりは、歴史とか文筆とかを重んじてよいはず」と大いに赤面しながら、「昭和の始めから太平洋戦争に至る、日本の悲運なる政局の内面について、一人でこれだけの見聞を持ち、それを記録したものは、他にはない」と脱帽して、いう。 [#この行1字下げ] 原田君は西園寺公の秘書になってから、公によって鍛えられたと思う。権道を避けて、どこまでも立憲政治の正道を踏み、そのためには何物をも怖れぬという気持は、だんだん原田君の内に堅まっていたと思う。私の先輩友人で、原田君を認めていたのは、池田成彬、米内光政両氏であった。両氏はいずれも原田の無私無欲を称し、私も同感であった。〈小泉信三『私の敬愛する人々』(43年、角川書店)150〉  もう一人、小泉の挙げた池田成彬の原田評を聞こう。 「原田は非常な努力家でしてね、ああいうふうに見えて居って非常な勉強をして居った。西園寺さんに心酔して、内閣の更迭、軍縮問題などの時は寝食を忘れて動いていた。一日に何ヶ所も歩いて、西園寺さんの所に報告しに行く。翌日はまたすぐ東京に戻って来るというので、実に勉強したものですね。あれは他の人では出来ません。それに原田は、要領を得たような得ないような所もあるし、山下亀三郎のような所も多分に持って居って、実に顔が広かった。それからあの男は正義ということには非常にやかましい人物でした。決してやましいことには寛容しないのです。それからどこまでも皇室に対する忠誠——そういうことはなかなか見かけによらない点がたくさんあります。内務省、外務省等政府の各機関は勿論、民間の者、実業界の者と原田はいつでも電話一本で話せるという風でした。不思議な人物でした。ただ、口が悪い。衆人満座の中でも平気で悪口を言い放言するものだから、誤解を受けることも多かった」〈池田成彬『故人今人』(24年、世界の日本社)22〉  話を元に戻して——  京都時代の原田は、次第に持ち前の性格を発揮していったようだ。  鶴井牧場では、主人の仁蔵が大工をやっており、また次男の義照が近衛の書生として住み込んでしまったので、人手が足りなくなった。原田の食事の世話も行きとどかなくなり、しかも学習院時代の仲間が押しかけるので原田は転居したのだが、世話好きの原田のことだから、鶴井牧場に出掛けてはなにかと手伝いをしていた。  牧場では毎朝二十本ほどの牛乳を近所に配達しなくてはならない。とくに冬は冷え込む土地柄だけにつらい仕事だが、これは原田が引き受けることにした。